青柳(あおやぎ)宿

 東条川を渡って1.1km進むと篠ノ井線の踏切を横切ります。青柳宿はもうすぐです。さらに踏切から500m進むと、連子格子が残る旧家が右手にあらわれます。歴史がありそうな造り酒屋で、酒も美味と思いました。まだ二里程度歩かなければならないので、飲むわけには行きませんが、善光寺参りの旅人も足をとめたことでしょう。
 さらに進むみ坂北村役場、坂北小学校を過ぎると大きな分岐点に至ります。左へ行くと坂北駅で、善光寺道は右折します。


造り酒屋

右折すると青柳宿

 ようやく青柳宿に入りました。写真の正面は城山(905m)です。この宿場も坂になっていて、段差のある石垣の上に屋敷が建てられており、水路がその石垣の下をくぐり抜け、石垣の中から流れ出る水は他の宿場では見られません。また屋号を掲げた旧家が多く見られます。


城山を望む

大和屋

 ほぼ宿場の最上部付近に本陣だった「青柳八郎右衛門」邸があり、黒門の扉は往時のものとのことです。  本陣のすぐ先から善光寺道は左折し、斜面を横断するルートになります。往時は横町と呼ばれ、まだ宿内です。


本陣

黒門

 横町を過ぎると民家も無くなり、すぐに大切通しに至ります。この切通しは天正八年(1580)に青柳伊勢守頼長によって開削され、その後切り下げられたと説明板にあります。青柳宿側の斜面には観音百体(実際には数えていません)が祀られています。大切通しを抜けると晩秋の紅葉が鮮やかでした。


大切通し

百体観音

手ノミの跡

大切通しの先

 大切通しから300m程度進むと小切通しです。ここから我が麻績村になりますが、麻績宿まではまだ一里程度あります。小切通しの先は長野道(高速道路)で、善光寺道はカードを潜ることになります。
 大切通しは長さ15間(27m)・幅9尺(2.7m)・高さ2間1尺(4m)、小切通しは長さ3間3尺(6.4m)・幅9尺・高さ8尺(.04m)余「是に依て、旅人并に牛馬の往来聊も煩ハしき事なく、野を越え山を越つつ麻績宿に至る」(善光寺道名所図会)


小切通し

小切通しの観音様

 高速道路を潜り抜け300m程度下ると、正面に聖高原が大きく見えてきます。さらに進むと麻績川に到ります。  女淵(おなぶち)のわけ有りげな表示があり、麻績川に沿って下り、最初の橋を渡ります。


砂原付近

道祖神

 往時と川筋が変わったのでしょうか、現在の橋を渡った先に「善光寺下井堀大橋」の標柱があります。
 すぐ先の篠ノ井線を渡り、国道403号に至ります。麻績宿まではあと2.3km程度と、もう目と鼻の先です。

 国道403号は善光寺道を寸断していて、国道から少し離れた地点に「嫁の泣き石」、「二十三夜塚」があります。
 昔、この石にしがみついた娘が、嫁入りを嫌がって泣きつづけ息が絶えた伝説の石です。大正期まで嫁入り行列は、この石の前を避けたと言いわれています。


嫁の泣き石

篠ノ井線、R403

 嫁の泣き石から約400m進むと「高札場跡」があります。さらに150m進むと、洗馬から12番目の麻績一里塚跡に至ります。便宜上「麻績一里塚」としましたが、一口坂一里塚と呼ばれていたのかも知れません。


高札場跡

麻績一里塚

 一里塚跡から100mを進むと善光寺道は国道から左へそれ、急な坂道になります。この坂は「一口坂(ひとくちざか)」と呼ばれいます。
「麻績合戦(治承四年〔1180〕)に向かう木曽義仲の軍馬が、この坂を登り笹を一口食べて元気を取り戻した」という言うことから一口坂と呼ばれるようになったとか。この坂を登れば麻績宿もすぐです。

一口坂


拡大地図

善光寺西街道

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