「保土ヶ谷」の表記が公称であることは『保土ヶ谷郷土史昭和13(1938)年11月』に記載さた「第ニ門 徳川時代 第ニ章 第ニ節 宿名は保土ヶ谷か程ヶ谷か」で決着しています。以下要約します。
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「最初に登場するのは天文12(1543)年の神明社由緒書(原本はなし)に「保土ヶ谷」とあり、郷土研究の根本的な資料である文禄2(1559)年の「小田原衆所領役帳」にも「保土ヶ谷」と表記されている。
江戸幕府の公文書では慶長6年(1601)の「傳馬ノ朱印」に「本と可や」と表記されているものの、以降本陣文書目録にある公文書、私文書のほとんどが保土ヶ谷と表記している。
「程ヶ谷」を用いた最初は寛永10(1633)年の「傳馬人足并次飛脚御用ノ爲被下米ノ件」の本文中に登場する。紀行文、詩、歌の中では盛んに「程ヶ谷」と表記されている。また保土ヶ谷の地以外で編纂された書物の多くは「程ヶ谷」とされている。これは文人墨客が神奈川を金川と洒落て戯書するのと同じことである。
一部の特殊者が用いた程ヶ谷は誤りではないが、雅称とか俗称で、地名保土ヶ谷が文献に登場した室町時代以降江戸時代に亙って、我が郷土の人々が日常慣用としていたのは保土ヶ谷こそ正当な公称である。」
保土ヶ谷のヶは、格助詞の「が」をヶと表記したものです。意味的には「ほどのたに」です。ホドは『保土ヶ谷郷土史』でも述べられていますが、その他に竈(かまど)の意味もあります。
横浜市(保土ケ谷区)が保土ケ谷と市民に公言したことによります。出展は条例の条文に「保土ケ谷」と表記されているためとしています。
ところが以下のような歴史的は経緯があることを横浜市の行政官が無知であったため混乱を招くことになっています。
法令の条文の仮名遣いは、拗音・促音は小書きしないのが伝統でした。
国も反省し(IT技術の進歩で漢字の使用が進歩したこともあります)昭和61年内閣告示第1号『現代仮名遣い』で、拗音や促音を「なるべく小書きにする」と注記されたのを受けて、昭和61年以降に国会に提出されたものは小書きが採用されています。(カタカナの拗音・促音は、それ以前から小書きでした)
まだ市民に強要はされていませんが、公文書では「保土ヶ谷宿」も「保土ケ谷宿」と表記しており、明らかに間違っています。市民の方は「保土ヶ谷宿」を「保土ケ谷宿」と表記しないように願います。
最後に保土ヶ谷の子たちが、ケニアを gania と発音しないことを願っています。